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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

猫タマ逝去  

ネットでは旧HPのトップページで皆様に可愛がられていた
うちのタマ五郎が10月22日午後23時30分に息を引き取りました。
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一言なりとお祈りいただければ幸いです。南無アッバ

category: その他

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金環日食=埼玉県蓮田市から  

自宅から見た金環日食。
雲が薄くかかってたので、返って肉眼でそのまま見え、カメラにもしっかり収まったのでした。ラッキー!
時間表示は2分くらい進んでいます。
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p.13 いつでも どこでも 南無アッバ  

ホームに立って
 電車待つまに南無アッバ
 (『アッバ讃美』)
井上神父は、「お祈りは時間が長ければいいというものではない。短い時間でも、神様(アッバ)に何もかもお任せする気持ちを持つことが大事だ」と言います。
そういう意味では、場所もお風呂だって、トイレだっていいわけです。
もちろん電車を待つホームでもOK。一瞬「南無アッバ」と射祷を唱える。。。
「でもどちらかというと自分としては、地下鉄などより、自然の見える地上のホームや車内の方がいい」とも言っています。

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12 他者の苦悩を自分のものに  

私は、人々に大きな影響を与えていく偉大な宗教家とは、当時の人々の苦悩がそのまま己れ自身の苦悩と一つになっていく、従って己れの苦悩を克服したとき、それが同時に人々を苦悩から解放することにつながっていくという、そういう人物だと思っているのである。そして法然もまたその例にもれない。

(『法然』地獄の恐怖からの解放)

 法然は、必死の求道にもかかわらず、生死を解脱できず、下山して京都、奈良を旅します。そのなかで、庶民の苦しみを目の当たりにすることになります。

彼らは、物質的なものばかりでなく、「地獄への恐怖」といった精神的な苦悩にも喘いでおり、それはまた、学問のあった西行や源信にしても解決のできない恐れでもありました。

 法然自身このことに悩み、これをどう解決するか、それがすなわち自分も庶民も救うことになる、と考えたのでした。ここに井上神父は、パウロと共通の姿勢をみています。



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11 15歳の決断  


求道者の一生は、必ず一度や二度は、もし道をあやまればその人生を台なしにしてしまうような危機に直面する。

それは言ってみれば、越えなければならない高い山にも似た、前から迫ってくるような困難とは全く異質なもので、先の見えない深い霧のなかで足もとから地面がくずれおちていくような、どこへどう進んだらいいのかわからないような苦悩に満ちた絶望的な危機感であろうと思う。

そこでは己れの力にたよることをやめ、ただひたすら合掌する以外に手だてはないのではなかろうか。

(『法然』少年法然、求道の危機)

若干15歳の少年法然が、宗教的天才として将来を嘱望されながらも、叡山に身の置き所がなく、黒谷へと遁世していくときの苦悩を、井上神父はこのように推し測っている。

神父は聖書の読み方について、「学者」と「求道者」の向かう方向の違いを『福音書を読む旅』などでも語っているが、こと求道者については、<あれかこれか>の道の選択は必然である。

そこには、常に実存的な「決断状況」があり、賭けがある。
そしてその道程には、また必然的に「苦悩」や「絶望的な危機感」が伴なうだろう。

そのとき行き着くのは、南無の心、「ただひたすら合掌する」心なのだという。

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マルコによる福音書1章  

15節

→『日本とイエスの顔』第2章 聖書を読むにあたって

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アダムとイヴ  

→『日本とイエスの顔』第2章 聖書を読むにあたって

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マタイによる福音書7章  

24-27節「それで、わたしのこれらの言葉を・・・・」

聖書は「実践的指導の書」であり、「字面を超えて」わたしたちを生かす「実相の体験を己れのものにしなければならない。」

「このイエスの言葉は、パレスチナの国土を背景として初めて理解されるものですが、行為することによって初めて見えてくる何か、聞こえてくる何かというもののたいせつさを説かれたものといえましょう。」(『日本とイエスの顔』第1章 ことばといのち)

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物語の意味  

7節:イエスが飼い葉桶に寝かされていたことについて

○『わが師イエスの生涯』1章p.14

 イエスの誕生物語を歴史的事実として受け止める必要はない。

河合隼雄を引用し、

本来日常的表象言語をこえた「深層意識的原体験の事実」=「真実」として、

「この物語を深く噛みしめ、どこまでも追体験していくしか真実をとらえるすべはない」とする。


 また、宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」を引用し、

この物語も「賢治の深層意識に根ざしている芸術体験が、

表層意識に浮かびあがってきたところで展開された」ものであり、

イエスの奇跡物語なども、その史的事実よりも、

「告げようとしてる真実にこそ耳を傾けるべき」であるという。

 その上で、7節は、

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神父が書いた詩集  

(一)
 まず、次の言葉に注目したい。

 「『神がイエスをよみがえらせ、高く挙げて主とした』という信仰宣言は、すっぽりとイエスがそのまま余白の次元に入りこみ、生かされ、余白を吹きぬける風と一体化し、生きとし生けるものの根底を吹きぬけることとなったということに他ならないのではないか。」(井上洋治著『余白の旅』-思索のあと-「余白」より)

 これは井上洋治神父が長年の思索、精神的彷徨の果てに見つけた信仰宣言クレドと言って よいものである。

その内実はこれからゆっくり追っていくとして、まず注目したいのは 、この表現が大変に日本人的、文学的な文体であるということである。

「余白を吹きぬける風と一体化し、生きとし生けるものの根底を吹きぬける・・・・。」

こうした表現には、どう見ても一般に考えられているキリスト教的、教義的、哲学的な印象はない。

むしろ、西行や芭蕉に代表されるような日本の伝統的文化の流れを感じさせる文体である。

〝ふつうの日本人〟がキリスト教に対して持つ印象はどんなものだろうか。

内村鑑三以来のリゴリズム――真面目かもしれないが、どこか世間離れしていて融通がきかない。

それが固定観念となって、そうしたイメージからはみ出すようなクリスチャンを見ると一言揶揄してみたくなる――こんなところだろうか。

いまだに私が酒を飲み、煙草を吸っていると、「えっ、平田さんってクリスチャンだったんですか?」などと目を見張られてしまう。

困ったものだ。
わが師イエスの生涯 わが師イエスの生涯
井上 洋治 (2005/02)
日本キリスト教団出版局

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thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

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平田栄一の本

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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