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過去はみな摂理と覚ゆ夏籠(なつごもり)  

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category: 求道俳句一言

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要約・南無アッバの集い&平田講座第52回  

実施14-10-18
「余白の風」第236号掲載
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇前回まで、テキスト55頁■「痛み」と「悲愛」の第二段落、「共に」を巡って、野呂芳男氏の北森神学批判から、〝北森神学は、怒る神を前提とした父性原理が強く、戦後の日本人が欲した苦しみを共にしてくれる神ではなかった〟ということをお話ししました。

母なる神は、遠藤周作の「同伴者イエス」、井上洋治の「アッバ」、また青野太潮の「ために」でなく「ともに」のキリスト論などによって、ようやく開花してきたといえましょう。
 
次に進みます。

56頁A
「また彼(パウロ)は『ローマの信徒への手紙』八章で次のように言っています。

『つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。』(八章二一節)

ここでの被造物クティシスという言葉は、人間以外の生きとし生けるものをさしていると考えられますが、パウロはここで、この生きとし生けるものは、私たちと共にうめいている(スステナゾー)と言っています。

このスステナゾーという動詞はステナゾー、うめくという動詞にスン、共にという意味の前置詞をつけたもので、この共にというところに、人間中心主義をこえたパウロの、人間と生きとし生けるものとの深い共生感がうかがわれます。」

(『風の薫り』一九三~一九四頁 傍線平田)


「共に」という、パウロに見られる「共生の神学」の例示です。

この井上神父の言葉はここでは「人以外の生きとし生けるもの」との共生を強調していますが、「共にうめく」という所は「十字架の神学」を想起させます。

青野流に言えば、ただ共生するのではなく、「十字架」を共にする、という点が強調されるわけです。


 井上神父はご存知のように、晩年は老いの苦しみを正直に訴えていました。

これまでもお話ししましたが、そういうことを言う神父様というのは、私も見たことがない。

愚痴をいう神父というのはいましたが、こういうふうに弱みや寂しさを、あたかも逆告解のように、一般の私たちに率直に言える井上神父というのは、やはり人間的なプライドをこえて、イエスさまに、アッバさまに捕らえられていたからこそだったのではないか、と思うのです。


 そういう井上神父は、青野氏がいうような十字架の「弱さ」を共に生きた、すなわちパウロが言った「わたしもまたイエスのように」(一コリント二・三)という福音のポイントを生きられたのではなかったでしょうか。

だから晩年のあの神父の泣き言のような発言も、それをただ「神父ともあろう者が情けない」と受け取るのは、考えが浅い、ということになると思います。


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