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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

11月の南無アッバの集い&平田講座  

11月25日(土)、第89回。
内容(予定):明治以降のキリスト教

初めての方も、どうぞおいでください。
皆さんとご一緒に祈り、井上アッバ神学を学んでいきましょう。
↖案内:左サイドバーを参照。
南無アッバ

category: ○お知らせ・報告

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11/19のツイートまとめ  

yohaku5

RT @mitakaforest: 『苦しみも、哀しみも、喜びも、すべてをあなたの御手から受け取ることによって、私たちの日々の生活が、あなたの悲愛の息吹きの働きの場となることができますように(井上洋治神父さま 風の家の祈りより)』 https://t.co/c2SzCiBWwt
11-19 08:38

category: ツイッター記事

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求道俳句誌「余白の風」第229号 2017年11月発行  

以下はブログ版です。*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。


俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ *選評

豊田・佐藤淡丘
しぐれては背に負ふもの捨てにゆく
一山やたった一頭残る虫
独座して祈るしじまや虫の秋
天狼星伊勢湾跨ぎ冬来る
外にも出よ冬のオリオン宙を占む

*「風」誌、はじめてご購読くださった由、ありがとうございます。そちらの「アッバ讃句コーナー」も一六回を数えました。多くは「余白の風」から転載させていただいています。今後ともよろしくお願いいたします。

大阪・島一木
黒は白でなく/白は黒でない/ぼくの魂は/灰色を忘れがちだ
魂は 空虚であるほど/多くの殻を/被ろうとするのだ/人に知られることを/恐れて

*①白黒をつける、といいます。しかしだれも白一色、黒一色の人間はいないわけで、そこを忘れ、自分のことは棚上げにして、他人を批判してしまう。自戒。

京都・瀧野悦子
南無アッバ神父ソバ焼くバザーかな
秋の夜の凹んでをれぬ南無アッバ
コヘレトにアッバのこゑや南無アッバ
南無アッバ涙のあとの温め酒
南無アッバアッバに抱かれ日向ぼこ

*久しぶりのご出句ありがとうございます。⑤井上神父はよく、祈りをアッバの悲愛のなかでの「日向ぼこ」にたとえていました。万事頭で信仰を理解しようとしていた私は、このたとえに出会って、祈りの体験的な意味を知りました。

昭島・新堀邦司
星合の夜となりたるぞ帰り来よ
耐へるしか術なき今日の暑さかな
くひな笛吹きて芭蕉の旅想ふ
金糸雀の機嫌よき朝秋立ちぬ

*『春夏秋冬 猫うらら』(里文出版、九四頁、千八百円+税)ご上梓おめでとうございます。句と絵と解説、英訳、ローマ字により、一般の方にもなじみやすい御本です。以下、所収句より。
  猫も一緒に欠伸するか  種田山頭火
  猫の子がちよいと押へるおち葉哉 小林一茶
  恋猫に縁なき猫の寝息かな  平田栄一
  捨て猫に付きまとわれて明易し  〃
  
高知・赤松久子
三人の博士導く冬の星
ヘルパーのサンタは笑顔輝かせ
冬ぬくしロザリオ繰りて南無アッバ
毛衣に洗者ヨハネを思ひけり
地下水の如き祈りに生かさるる

*⑤「祈ると何かいいことがあるの?」と非信者の方から聞かれます。第一に、状況が変わらなくても祈る人が変えられる。第二に、祈りは相互作用、祈る者同士でつながる。まさに「地下水の如き祈り」に生かされます。

八王子・F・井上
ポストまで七草めでる風の道
雨の日は雨に洗われ南無アッバ
告知より唯ひたすらに南無アッバ
南無アッバおまかせします南無アッバ

*②③身につまされます。しかし、こうした「雨の日」が続いても、①身近な所で健気に生きる草花の気持ちを忘れず、共感できるしなやかさ。④まさに、「おまかせします」の南無アッバの祈りの効用です。

東京・中村昇平
うっすらと残雪残す伊吹山
芝生燃ゆ孫二年生の運動会

*孫は子よりかわいい、などと言いますが、若い世代がどんどん成長していけば、老いもパワーをもらえるのだと思います。

練馬・魚住るみ子
秋雨や針穴に糸入り難く
小さき悔いに責められ暮れぬこぼれ萩
風につれ鳴る風鈴のね音幼な日の縁側に坐す母とわれはや
  『風の道』           
山の辺に道にかあらむ万葉の跡を尋ぬる旅のうつしゑ写真

*②老いの日々に、すっかり忘れていた昔の傷や悔いが忽然と甦ることもありましょう。③また、自分が幼少の心に帰るのも一瞬。人の記憶や感情は不思議なものです。しかし、どんなときでも南無の祈りに戻れる幸い。

 名古屋・片岡惇子
ロザリオの繰る手に風秋桜
主の条理の不条理祈る大夕焼
稲穂垂る主の良しといふ声聞こゆ
子の笑顔吸い取って行く大夕焼
月光や深海知らず波照らす
秋深し聖書を祈りみ心問ふ

*②井上神父は、神は人間の理性にとっては「神聖なる無」であるといいます。ですからアッバの「条理」は人間には「不条理」に見えるかもしれない。しかし私たちは信仰によって、究極的な幸いにあずかれることを確信します。

蓮田・平田栄一
   今を生きることばⅡ
否定したい過去がある。しかしそれがどういう意味を持つようになるかは、無限の可能性がある。
   *
十字架即復活の保証により、吾らは、明るい相のもとに、すべての事象を見ることが許されている。
   *
いじける材料は、いくらでもある。やがて負のスパイラルに落ち込む。そこから抜け出す勇気は十字架。十字架が刻まれたコインの裏側は、復活に輝いている。


平田講座要約(第四八回)2014-6続

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
p・54B
次にそうした罪ないし苦しみの解決、救済論ということになると、北森神学では十字架を負ったイエスの痛みが父なる神の痛みに直結して、神の愛が語られていきます。それに対し井上神学では、イエスの痛みを父なる神がさらに包みこんで、抱き上げていくところに神の愛を見ています。つまり子と父(なる神)の愛という関係では、北森神学は直結構造を持っており、井上神学は包括構造を持っていると言っていいのではないかと思います。これを父なる神という点に絞ってみると、北森神学の〝痛む父〟に対して井上神学は〝慈しむ父〟が強調されていきます。


右のことを整理しますと、次のようになると思います。【板書】
<救済論の比較>
〇北森: イエス中心主義
イエスの痛み→神の痛み→神の愛(直結)
         ↓
        痛む父

〇井上:神中心主義(青野、パウロ)
イエスの痛み<包み込む神→神の愛(包括)
         ↓
        慈しむ父

「イエス中心主義」「神中心主義」ということは、本文には書かなかったのですが、のちに青野神学を学んでいくなかで、救済論におけるイエスの能動性という視点を持つようになり、便宜上ですが分類に使ってみました。北森神学は父子直結構造ですから、父がしたこと=子がしたことというニュアンスが強い。父が人間を救うために子を十字架にかけて・・・ということではあるのですが、痛みで直結していますから、一心同体的で、子が自ら進んで人間の罪のために、という意味合いが出てくる。子は能動的です。

それに対し、井上神学は十字架のヨハネの描いた、あの上から見た十字架像に象徴的なように、イエスはアッバの業を成し遂げる「場」となった、すなわち、父に対して子は受動的だということです。

同(第四九回)2014-7

前回まで、北森神学VS井上神学に関して、痛む父と慈しむ父を比較し、神学の出発点については、北森さんは、「わが罪」の解決から、井上神父は、「苦しみ」の解決から、また救済論の比較では、北森さんの「イエス中心主義」に対し、井上神父の「神中心主義」(青野:パウロも)ということを見ました。

南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)日時11/25(土)午後1時半~。12/23(土)同、1/27(土)同。

―「余白の風」入会案内―
どなたでも参加できます。購読のみも可*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日
*ブログ「南無アッバを生きる。」に掲載します。
*入会申し込み、お問い合わせはサイドバー「余白メール」まで。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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11/09のツイートまとめ  

yohaku5

37年前、初めて井上神父にお会いした真生会館、信濃町。すっかり変わってしまいました。(拙著『すべてはアッバの御手に』p.6参照) https://t.co/uALNdLSTrr
11-09 09:21

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11/04のツイートまとめ  

yohaku5

たとえ全世界を手に入れても、自分らしさを失ったら、何の得があろうか。(マルコ3.36、本田哲郎訳より)
11-04 14:42

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講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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